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Cabo Verde 2004

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 7月にブラジルに行く前、ピアニストのZe Afonzoから突然の電話が。"Mio, queres ir ao Cabo Verde?" 「美緒、,カーボ・ヴェルデに行きたい?」との質問に寝ぼけ眼で「うん、行きたい」というと「じゃあ、8月全部空けといて!」というではないか!彼が弾いているティト・パリスの店"Casa da Morna"に行くと、カーボ・ヴェルデにホテルを持っているポルトガル人の紳士が来ていて、「君のことは前テレビで見て知っているよ」と言われ、とても嬉しそうです。彼がZeに「誰かかモルナやファドを歌える歌手を連れてピアノとヴォーカルだけの親密なステージをやってほしい」と言った時に、私のことを思い出してくれたそうです。突然、手に入ったカーボ・ヴェルデへの切符、最大限にいいステージができるために、ブラジルに行く前日まで、Zeとリハーサルをしました。モルナやコラデラ、ファドを次々とリアルタイムで覚えていく作業でした。カーボ・ヴェルデの国民的詩人B.Lezaの息子Veladimir Romanoがくれたカーボ・ヴェルデの音楽とリズムについての冊子もかなり参考になりました。しかし、百聞は一見にしかず。
 ブラジルから帰ったのは8月3日で、5日にはカーボ・ヴェルデへと発ちました。ブラジル熱が冷めないまま、2日にも満たないリスボンを後に、Ze Afonsoとアルゼンチンの歌手Lucia Etchagueと出発です。カーボ・ヴェルデまでは3時間。なんと、ブラジルの北部とカーボ・ヴェルデも3時間で、まさにポルトガルとブラジルの間の飛び石のような島国なのです。
 夜出発の飛行機はCabo Verde Airlines。さすがカーボ・ヴェルデ、3時間も平気で遅れました。国際空港がある、一つ目の島サル島(塩の島)に到着したときはもう深夜。ホテルでゆっくり眠った後、外に出てみると・・・・。なんと美しい海でしょう!!!エメラルド色に輝く、今まで見たこともない澄んだ海でした。仕事は明後日までないので好きにしていて、と言われ、海でのーんびりしました。

 この島で初めと最後の1週間ずつを過ごしました。このサル島は、世にも美しいビーチと塩田があるだけで、あとはまったく不毛の地です。もともと無人島だったとは聞いていましたが、カーボ・ヴェルデの島々はサント・アンタン島をのぞいては、人が生きていくのは大変な環境です。野菜や果物などがとても育ちにくいのです。
 夜は9時頃からステージをしました。おもにポルトガル人が多かったので、ファドが喜ばれました。それでもピアノとデュオなので、思いっきり遊んでしまいました。ファドをスィングで歌った、「マリア・リスボア」をカーボ・ヴェルデのリズムのコラデイラで歌ったり、「暗いはしけ」をバトゥッキで歌ったり、ポルトガル人もびっくりしていました。カーボヴェルデ人は大喜び。
 サル島で、ほとんどがサン・ヴィンセンテ島から来ている踊り子、パフォーマー、歌手の子達と一緒に仕事をし、とても仲よくなりました。彼らが踊るのを見て、一緒に踊って、どんどんこの国の音楽のリズム、グルーヴが体に染み込んでいくようでした。クレオール語も毎日聞いているうちに、たくさん話せるようになりました。思い出せばとても懐かしいです。Sodade(saudade)でいっぱいです。みんな、元気かなあ。
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 次に行ったのは、Ze Afonsoの故郷で、カーボ・ヴェルデの心と言われるサン・ヴィンセンテ島。突然の大雨と竜巻の後で、あいにくの悪天候が続きましたが、面白いことだらけでした。小さな島なので、私達のホテルPorto Grandeの前の広場に、若者が結集してはぞろぞろと歩いては暇をつぶしているのです。サン・ヴィンセンテの人ならば若い頃必ず行った社交の場が、この広場だったそうです。何もしないでただ歩いているだけなのですが、好きな子がいると、わざと反対側から回って、何度も出会うようにしていたらしいです。なんと平和なこと!!
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教会の前で夕方集まってギターを弾き歌う子供たち。

 サン・ヴィンセンテは貧困を目の当たりにした場所でもあります。道で生活する子供達や、屋根のないまま人が住んでいる家(これはもう見慣れました)、空き地に勝手に壁だけ作っては「販売中」と書いた家。それにしても、物価は驚くほど高く、ポルトガルよりも高いものもあります。一体、どうやって生活が成り立っているのだろう、と疑問でいっぱいでした。住民よりも多いのが海外に移住したカーボ・ヴェルデ人。その理由はこうした雨の降らない土地のせいでもあります。
 サン・ヴィンセンテの観客は地元の人が多く、ステージはとても盛り上がりました。しかも、ゲストでパーカッショニストでパリ在住のジニーが入ってくれ、毎日のように楽しいセッションをしました。ちょうどカーボ・ヴェルデきってのピアニストChico Serraもいて、一緒に歌ったりできました。セザリアのCDにいつも参加していたLuis Ramosという素晴らしいギタリストに会い、一緒にファドをモルナで歌ってみたりと、空いた時間に合わせてみました。すると、ぴったり合うではないですか。やはり、つながっている!と感動しました。面白いことにポルトガル人でカーボ・ヴェルデのリズムが出せる人は知りませんが、カーボ・ヴェルデ人にはファドが簡単に弾けるし、それを簡単にモルナに料理できてしまうのです。
 
 日本語のサビがある「Saiko daio」というコラデイラを、初めて歌ったのもここでした。みな、コーラスをして踊ってくれました。詩人で作曲家B.Lezaはこの島の出身なので、彼が作った美しいモルナをたくさん歌いました。カーボ・ヴェルデのラジオ、テレビ局も取材に来て、ライブの模様を伝えていました。
深夜にステージが終わると、le musique cafeというお洒落なライブハウスに遊びに行って、熱い熱いカーボ・ヴェルデの地元の夜を楽しみました。サン・ヴィンセンテの魅力は何と言っても、優しくて温かくてまっすぐな人々でしょう。

 それにしても5年以上前にセザリアをヴァンクーヴァーで見てから、こうやってカーボ・ヴェルデに来る事ができためぐり合わせにただただ不思議でした。素晴らしいです。
セザリア・エヴォラに会いにお家まで行きましたが、あいにく外出中とのこと。「またいつでも会えるさ」というZe Afonzoの言葉に「そうだね、まあいっか」と言っているうちに、もう出発・・。セザリア、次こそは会いたいです。
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コンポーザー Manuel D'Novasと。

 次の島はサン・ティアゴ島プライア市。クレオール語も、人種も文化も、北部の島々とは違っていて、よりアフリカ色の濃い場所です。コンゴなどアフリカリk内陸部から連れてこられた奴隷の文化が色濃く、リズムはバトゥッキ、フナナ、チャバンカなど、パーカッシヴで結構短調なダンス音楽です。でも踊っているうちにトランスしていくのは否めないし、美しい歌も多いです。一言で言うと「激しい」文化といえます。
島を一巡りしましたが、なかなか大きな島です。山の方は、とても美しい景色が。まるで中国の墨絵のようでもありました。ただ、悲しい事にゴミが多くて、信じられない位の汚さの場所がありました。
写真はそのうち・・・。超豪華なホテルで歌うのはいいとしても、中心からかなり離れていて、人が少ない場所でした。それでも海の風を感じながら屋外の庭のステージで歌うのは気持ちがよかったです。
 このとき、ブラジルのノルデスチの歌手Robston Madeirosに出会いました。彼は私達とは違う日程で島から島へと移動していたのですが、ちょうどサル島へ帰るときにホテルの空き部屋がなかったので、まだプライアに残っていたのでした。彼はギター一本で膨大な量のレパートリーを弾きこなす人です。温かい声と本当にいい歌で、たくさんブラジルの美しい歌を教えてくれました。ノルデスチの音楽の素晴らしさを教えてくれたのも彼です。彼がまだいる間と、サル島に戻ってからも一緒にステージで共演しました。それにしても、ブラジルの豊かなコードを聴くとほっとしました。
 プライアにいるときに、地元のテレビ局が来てホテルの宣伝番組を作っていきました。それに私とルシアが歌っているのが入っています。一体あれはどうなったんだろう?
また、Cafe de Cabo Verdeというコーヒー会社のご夫妻とお友達になって、プライアにある工場の見学をさせてもらいました。なんと、ポルトガル人でギマランエス出身のこのご夫妻は大のコーヒー好きで、本物のコーヒーが飲みたいからと、カーボヴェルデで会社を始めたのです。でも、家の機会が壊れているからと、ホテルまで毎日来ては自分のところのコーヒーを飲まれるのでした。とても優しいご夫妻でした。
 最後の2週間はサル島に戻りました。雨模様のプライアを後に、飛行機は青い青い海と真っ白な海辺のサル島へと到着。踊り子やスタッフの子達と再会を果たし、とても嬉しかったです。ホテルに空き部屋がないというので、私達だけ少し離れた素敵なペンションに。はっきり言ってここの方がよっぽどいい感じ、と思わせるような離れ具合。前は時が止まったままの海。「永遠の海辺」と呼びたいくらいでした。あの海の夕日は一生忘れられません。

 最後の日々は、とことん歌って楽しみました。いつの間にか皆を踊らせるのがとてもとても好きになっていた私。そう、それこそがこの地での醍醐味!と感じました。"Tud Dret!?"「元気?」とクレオール語で挨拶して、お客さんとの交流ももっとできるようになり、ポルトガル人もクレオール人も日を増すごとに、ステージの私とコミュニケーションを取ってくれるようになりました。ファドをどんなリズムにアレンジしようが、その心髄を忘れずに真剣に歌っていると、ポルトガル人の反応もとても温かいのが感じられました。それは、毎日テストを受けているかのようでした。
ある日、ホテルでのステージですごいハプニングがありました。大雨で、ステージと客席の間に雨が降ったのです!それもまるで滝のように・・。「今まで一度も雨の前で歌った事はありません」というと、皆笑ってくれ、なんだか神聖な魔法がかったような気分で歌ったのでした。
 こんなこともありました。「海はソダーデの住処」Mar e Morada di sodade というモルナを歌ったら、サン・ヴィンセンテ出身のスタッフの女の子が涙を流して言ってくれたのです。「ありがとう。私の親も兄弟も皆アメリカに住んでいるから、海は本当にソダーデの住処なの」。心を込めて歌った歌は、心で受け止めてくれる。そういう風に思わせてくれる出会いや会話がたくさんありました。どれも、今の私にとても大切な出来事です。

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カーボ・ヴェルデ。大西洋にぽっかりと浮かんだ島々。来るものは拒まず、去るものは追わず、島独特の宿命感に溢れたカーボ・ヴェルデ。海は優しく澄み切っていて、恨みを残さない。ただ、行ってしまった者の記憶と思いが優しい波と一緒に心を慰める・・・。だからモルナのリズムは「波」なのだ。ファドのように重過ぎず、ブラジルのようにパーカッシヴすぎない、その中間を行くのです。それはこの地の宿命。まさに海の波のよう。
カーボ・ヴェルデ・・・。温もりとジョークの中に漂うソダーデ、決して人を孤独にしない、情が深くて根アカな南方系サウダーデは、私の心にぐっと染みて、この国と人はより懐かしさをそそるのです。
たくさんたくさん学びました。深く感動をしました。会いたい人が大勢できました。
そう、ポルトガルで孤独になった私をいつも温かく迎え入れてくれたのはこの国の移民の人たちのモラヴェーザ(もてなし)でもありました。
ありがとう、ありがとう。カーボ・ヴェルデ。
そうそう、最後の日は、踊り子の女の子に、髪をアフリカ風のトランシーニャ(三つ編み)にしてもらいました。いたずらっぽくなって、とっても気に入りました。カーボ・ヴェルデのクレオール娘の元気をもらって・・・。
すっかりクレオールになったまま、ポルトガルへ、それから5日後には日本に帰国したのでした。
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by miomatsuda | 2004-08-06 23:12 | ◆旅日記/Traveler's note

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