『Silence〜沈黙〜』日本公開の前に
2017年 01月 20日
マーティン・スコセッシ監督の"Silence"『沈黙』が、明日公開される。ドキドキしながら明日を待っているところだ。女優のお友達や新潮社の遠藤周作さん担当の方や、ポーランドの研究者ユスチナ・カシャさんから「観た」と連絡があり、早く観たいと毎日いまかいまかと待っていた。先日放映されたBSのドキュメンタリーも夢中で見て、スコセッシ監督の洞察と魂の探求とも思える制作過程に深く突き動かされた。
思えば、去年はいろいろな出来事があった。
夏には遠藤周作『沈黙』シンポジウムに呼んでいただき、幕開けに隠れキリシタンにちなんだ歌を歌った。そのあとのパネルディスカッションにも呼んでくださって、遠藤文学の専門家の方々と語る(私はポルトガルや「こびとの歌」の話をちょっとしたくらい)時間もあった。
遠藤周作文学館でコンサートの後、五島の福江で、キリシタンの家系のガイドさんの詳しいお話つきで島を案内していただいた。
クリスマスには、世界的な音楽家でありピーター・ブルックの音楽監督をされてツアー中の土取利行さんと「日本に芽吹いたキリスト教音楽」と題して、岐阜の郡上八幡でコンサート。(土取さんの精神性・音楽性とパートナーの故・桃山晴衣さんの軌跡に私は最近最大の刺激を受けているのだけど、これについてはまたいずれ。)
コンサートでは、あるグレゴリオ聖歌が300年近く密かに歌い続けられていた奇跡の歌「ぐるりよーざ」を土取さんと歌った。 皆川達夫氏がその元になったグレゴリオ聖歌 "O Gloriosa Domina"(聖母マリア讃歌) をスペインの田舎の図書館で発見した、という話はよく知られている。その二つを最近自分で混ぜてやっていたのが、土取さんが生月のおじいさんのように歌ってくださって、もとはひとつだった歌が輪唱のようになってつながった。
そして、また生月の「ダンジク様」。これこそ、遠藤周作の『沈黙』の原作に出てくる歌だ。キリシタン達が処刑される時に歌いながら歩いて行く時に歌っていた歌として使われている。
これは生月の中江之島で斬首された人たちの血が海に散る花のようで、死して天国に行ける、苦難もいつか終わる、そんな魂の救いを示唆している。
歌に出てくる「シバタ山」は、謎とされているけれど、私はポルトガル語の"Chibata”「鞭」から来ているんじゃないかと思う。今行く道は、鞭打ちの山、苦難の山、涙の岬だけれども、そこを越えたら救われる・・・。
私にとって、ポルトガルへ行く土台になったのは、子供の頃に触れた長崎とカクレキリシタンの歴史だったと思う。
もし私が当時の人間なら、きっと広い世界を見たいからキリスト教になったかもしれない。ただ、命を捨てるまで全うできただろうか。どうして知りもしない海のむこうの教えに命をかけて身を投じることができたのだろう。毎年踏み絵を踏みながらも隠れて祈り続けることができただろうか。
こうも思う。当時咲き誇った南蛮文化を一度でも体験し、海のむこうに思いを馳せてしまったなら。誰にも顧みられない貧しさに身をおいて、病を看てもらい「無条件の愛」という精神を知ってしまったなら。自分の肉親が命をかけて守った祈りがあったなら。
自問しながら、長崎を訪れ、大西洋の国々につながる時間と精神をたどってきた。遠藤周作の『沈黙』はそのとき鞄のなかに、心のなかにしのばせていた本なのだ。
明日、心して映画館へ向かう。
思えば、去年はいろいろな出来事があった。
夏には遠藤周作『沈黙』シンポジウムに呼んでいただき、幕開けに隠れキリシタンにちなんだ歌を歌った。そのあとのパネルディスカッションにも呼んでくださって、遠藤文学の専門家の方々と語る(私はポルトガルや「こびとの歌」の話をちょっとしたくらい)時間もあった。
遠藤周作文学館でコンサートの後、五島の福江で、キリシタンの家系のガイドさんの詳しいお話つきで島を案内していただいた。
クリスマスには、世界的な音楽家でありピーター・ブルックの音楽監督をされてツアー中の土取利行さんと「日本に芽吹いたキリスト教音楽」と題して、岐阜の郡上八幡でコンサート。(土取さんの精神性・音楽性とパートナーの故・桃山晴衣さんの軌跡に私は最近最大の刺激を受けているのだけど、これについてはまたいずれ。)
コンサートでは、あるグレゴリオ聖歌が300年近く密かに歌い続けられていた奇跡の歌「ぐるりよーざ」を土取さんと歌った。 皆川達夫氏がその元になったグレゴリオ聖歌 "O Gloriosa Domina"(聖母マリア讃歌) をスペインの田舎の図書館で発見した、という話はよく知られている。その二つを最近自分で混ぜてやっていたのが、土取さんが生月のおじいさんのように歌ってくださって、もとはひとつだった歌が輪唱のようになってつながった。
そして、また生月の「ダンジク様」。これこそ、遠藤周作の『沈黙』の原作に出てくる歌だ。キリシタン達が処刑される時に歌いながら歩いて行く時に歌っていた歌として使われている。
これは生月の中江之島で斬首された人たちの血が海に散る花のようで、死して天国に行ける、苦難もいつか終わる、そんな魂の救いを示唆している。
歌に出てくる「シバタ山」は、謎とされているけれど、私はポルトガル語の"Chibata”「鞭」から来ているんじゃないかと思う。今行く道は、鞭打ちの山、苦難の山、涙の岬だけれども、そこを越えたら救われる・・・。
私にとって、ポルトガルへ行く土台になったのは、子供の頃に触れた長崎とカクレキリシタンの歴史だったと思う。
もし私が当時の人間なら、きっと広い世界を見たいからキリスト教になったかもしれない。ただ、命を捨てるまで全うできただろうか。どうして知りもしない海のむこうの教えに命をかけて身を投じることができたのだろう。毎年踏み絵を踏みながらも隠れて祈り続けることができただろうか。
こうも思う。当時咲き誇った南蛮文化を一度でも体験し、海のむこうに思いを馳せてしまったなら。誰にも顧みられない貧しさに身をおいて、病を看てもらい「無条件の愛」という精神を知ってしまったなら。自分の肉親が命をかけて守った祈りがあったなら。
自問しながら、長崎を訪れ、大西洋の国々につながる時間と精神をたどってきた。遠藤周作の『沈黙』はそのとき鞄のなかに、心のなかにしのばせていた本なのだ。
明日、心して映画館へ向かう。
by miomatsuda
| 2017-01-20 17:18
| ◆日々雑感/Notes