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こびとの歌 再考

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 長崎湾の玄関口、伊王島のカトリック集落馬込で100歳近い女性たちのみが覚えていた歌「こびとの歌」は、『クレオール・ニッポン』でとりあげて歌ってから、たくさんの方から心に残ったというメッセージをいただいた。2012年の暮れ、この歌と出逢い、魅了され、歌いたいと思ったことから日本のうたプロジェクトを始めた。歌うごとにいとおしくなるこの歌を聴いてくださった方もまたそう感じてくれるのだと知って、やっぱりうれしい。
 この「こびとの歌」、一寸法師のような小人が仕事にありつけず、大航海に出て、難破して死すが、天国でイエスに救われるという不思議な物語は、現地で調べていくうちに、大正時代の子供劇の劇中歌だったとわかったのは、本に書いたとおりだ。
 この歌についての新しい情報が、先日再訪した秋田県の民蔟芸術研究所の資料室で見つかった。私が見落としてコピーをとり忘れていたのだが、教育庁が昭和63年にまとめた「緊急調査」の本の冒頭に大変丁寧に歌の出自が記載されていたのだ。長崎で当時調査された方が残してくださったのだろう、本当に貴重だ。そこには、16番地にあった「聖心女学校」で学んでいた伊王島出身の山崎イセが持ち帰り、伊王島に伝え、それがわらべ歌として定着したとあった。これは、2012年に当時100歳の本村トラさんにお話を聞いた時に「16番地で教えをしよった人が持ち帰った」とおっしゃった話と重なる。
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 聖心女学院は、「信徒発見」で名高いプチジャン神父によってフランスから呼び寄せられた4名の修道女が、1881年に大浦5番地に修道院を開設し、それが1898(明治31)年に16番地に新築移転した時に創設されたそうである。それ以後、長崎のかつてのキリシタン集落各地から、この女学院へ多くの女学生が通ったことだろう。それなのに、どうしてこの女学院で教えられたこうした歌は伊王島のみに残ったのだろう。だが、伊王島の施設にいらっしゃった対岸の外海町黒崎出身の易さんもこの歌を黒崎教会の前にあった古御堂(ふるみどう)で習ったとおっしゃっていた。もしかすると、今残っていないだけで、長崎の他の島や町でもこの劇は子供達に教えられたのかもしれない。だが、わずかばかりの資料、口承、記憶として残ったのは、伊王島のみなのだ。それには、戦争と原爆の惨禍が関係しているかもしれないと思う。
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 歌は移動する人によってほかの場所へと旅する。ただ、この歌は、意志を持って伊王島そして黒崎へともたらされ、大正デモクラシーの頃、子供達に教えられ歌われた。興味深いのは「わらべ歌として定着した」ことにあると思う。それは彼女達の少女時代の懐かしい記憶と結びついているのだ。これを歌っていた少女達のなかで私がお会いできたのは102歳、96歳、94歳のおばあさんたちだけで、その中のお一方は、この前伊王島を訪れた時にすでにお亡くなりになったと知った。今思えば、本当に貴重なお話を聴くことができたのだ。そうしたお話は、今聴かないと永久に失われてしまったのだろう。それは多様な日本のほんの一部でしかないけれど、きわめてリアルで心躍るひとびとの記憶であり、過去と今の私たちをつないでくれるたくましい綱なのだ。
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写真 畠山浩史
by miomatsuda | 2015-11-22 21:27 | ◆日本のうた

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