韓国ツアー記 その2
2013年 08月 22日
さて、康津郡庁を後にして、マイクロバスで、3時間の旅ののち、全州へ到着しました。
ちょっと歴史のこと。
全州は、三韓時代は百済の完山とよばれ、後三国時代は百済の都となったで、高い文化を誇った町です。日本列島へは古くから百済を通して大陸・半島の先進文化が伝わり、特に切っても切れない関係のあるところです。
ちなみに、以前、663年、白村江の戦いで百済が滅亡した時に日本へ亡命してきた武官、鬼室集斯の里(滋賀県・蒲生)へ行ったことがあります。国が滅び悲痛な思いで日本に渡来してきた人たちは、その高い技術や知識で日本列島の様々な土地の発展に寄与しながら、万葉の里に故郷の面影を求めたことでしょう。
で、着いたとたん、昼食です。しかも、お店の名前は「三国時代」。大きな建物に三韓あり。
一階はバブリーな新羅、ゴルフ場。2階は百済食堂。3階は高句麗食堂。高句麗は夜しかやっていないのか、滅んでしまったのか、真っ暗でした。
私たちは、もちろん百済へ。
さすが百済・全州、しかも食の都だというだけあって、豪華な「百済定食」が出てきました。
武田さんが斬ってくれてますのは、タコー!
安くて美味しくて豪華です。
メシの話はこのくらいにして、コンサート会場へ。
会場は、「ソリ(音)の殿堂」とよばれる、パンソリなどの伝統音楽が演奏される由緒正しい文化施設です。
巨大な敷地に複数のコンサートホールが並ぶ美しいところでした。もっと滞在ができたら、伝統音楽の舞台を見たかったな!
この日は、テレビとラジオの収録がコンサートの前にありました。
全州テレビで今回の公演や日本と韓国の音楽について、いろいろなお話をしました。
コンサートは初めからものすごい熱気で、さすが音の殿堂、お客さんの反応が深く熱かった!
今回、韓国ツアーのために覚えたもう1曲の歌は、「朝露」(アチミスル)。
この歌は金敏基(キム・ミンギ)さん作詞作曲・歌手の楊姫銀(ヤン・ヒウン)さんが歌い、1980年代、発禁処分となりながらも、軍事政権のさなかに歌い継がれた、時代を代表する歌です。
思えば、百済滅亡以来(本当にそんなに古くから)全羅道には抵抗の歴史があります。全州がある全羅北道の町、光州で、1980年に民主化を求める学生、市民を韓国の軍隊が制圧するという歴史的な悲劇が起こりました。
また、光州では1920年代、日本占領時代に大規模な独立運動が起こるなど、全羅道は歴史の波にもまれながらも、それに挑んできた土地なのです。
「朝露」
長い夜が明け 草葉に宿る
真珠より美しい 朝露のように
心に悲しみが 宿るとき
朝の丘に登り ちょっと微笑んでみる
太陽は墓地の上に 赤く照り
真昼の暑さは 私の試練か
私は行こう 荒れ果てた広野へ
悲しみ すべて 捨てて 私は行こう
「朝露」を初めて聴いた時、ギリシャの軍事政権時代、人々によって歌われていた歌「アコーディオン」を思い出しました。エーゲ海の青を思い起こさせるおおらかな旋律に、ファシズムを許さない断固とした意志が込められている歌です。
「朝露」も深い悲しみを昇華させて、心の奥底から生きる力を呼び覚ます、美しく凛とした歌です。
今回、こんな韓国の現代のイコンのような歌を歌うことになったので、心を強く込めて歌ってきました。
全州ラジオでは、インタビューと公演の一部が放送されました。電波に普通乗らない日本語の歌を、許可を取って流してくださったそうです。放送されたブラジル日系人の「移民節」(イミンという発音は同じ。)やヴィラ・ロボスの「田舎の列車」は、イメージがぴったりの演目だったと思います。
また、キリスト教徒が多い韓国で、しかも日本の隠れキリシタンと同じような歴史がある全羅道で「こびとのうた」はとても深い反響がありました。
出張先の光州から駆けつけてくださった国際交流基金の小島所長も一緒に。
康津、全州と怒濤の二日間のあとの打ち上げは、サムギョプサル。肉厚い!ブラジル人の映像作家ホベルトも来てくれました。
翌日は、移動日。午前中は観光。全州の伝統的家屋が並ぶ地区へ。
韓紙の工場へ。鮮やかな色がならぶ。
そして、武田さんに「全州にきたら絶対に食べていただきます」と言われていたビビンバプ。日本でもおなじみのビビンバプは、全州で生まれたそうなのです。具が多い、多い。本当に美味しかった!
「ビビンバプ、チェゴヤ〜(最高よ〜)」
と、このような観光へもしっかり連れてっていただき、全州を満喫したあと、そのままソウルへ。
それぞれが高速のインターで身体にいい飲み物を買いました。
つづく。