忍者から始まって・・・。正月歴史探訪 その壱
2008年 01月 14日
今年は、コタツにみかんという日本的なお正月を何年かぶりにゆったりと過ごし、武家言葉がうつるくらい時代劇ばかり見ていました。また、足首を痛めたこともあり外出できないので、本の虫になっていたのが、司馬遼太郎の短編「下請忍者」を読み、忘れていた歴史ものへの熱が突然蘇りました。忍者というと、子供の頃とても憧れていたおぼえがあります。闇夜に音もなくやってきては様々なまやかしや忍具をもちいて人の眼に触れないよう任務を実行する技能集団。常人には考えられない動きと技はもちろんのこと、「それがしは○○の○○家の○○、○○と申す。お手合わせ願いたい」などと名乗ることもなく、侍の法度や大名家に縛られず、技を売る一匹狼たち・・そんなマージナルなイメージがどこかジプシーや芸人魂とも通じるようで憧れていました。
ところがどっこい、忍びには忍びの厳しい現実がありました。今でいう斡旋業者のような上忍とそれに雇われる下請け人の下忍のシステムが・・・。
戦国の世、河内の山里などの貧しいところからさらわれたり売られた子供たちが小さな頃から伊賀の地侍(上忍)の家で過酷な訓練を受け、(水の中に5分頭をつけられたり・・・)それに生き残った者だけが仕事を受けられる下忍となったそうです。それでも人によって仕事の向き不向きがあり、動きがあまり速くない者は(私ならこれにされたかも)変装して町で嘘の噂を流し、民心を煽るなどの仕事をしたらしい。春と夏は小作人として田畑を耕す下忍たちは、秋と冬、戦さが寒くてやりにくい時期に取引先=大名家に送られ、スパイや盗み、毒殺などで暗躍し、その応酬合戦は「冬の陣」と呼ばれたそうです。しかしながら、その稼ぎは微々たるもので、いくら大きな働きをしてもほとんどは上忍の懐に入り、下忍は家さえもてない・・・。下忍は上忍と話すときは家にあがれず、白砂の上でお達しをきく・・・。老いた下忍は惜しげもなく使い棄てにされる・・・。
司馬氏が描く下忍の暮らしの現実に驚いたことから始まって、伊賀、甲賀の旅、やがては忍術の始祖と呼ばれる役の行者の修行した那智の滝まで足を運び、ストーリーは日本書紀以前の古代民族鴨族にまで広がるという壮大な歴史ロマンに正月早々から浸ってしまいました。
ちなみに東京の「半蔵門」は、伊賀の上忍、服部半蔵が徳川幕府が築かれるときに、家康に招かれ、200人の伊賀者を連れてやってきた場所。江戸にやってきた下忍も妻を娶り、子を為し、当り障りのない仕事を与えられながらシステムの中で侍化していったといいます。それでも、司馬氏が描くように、もと忍者の侍は奇妙な人たちだったに違いありません。足音をたてずに歩く侍とか、非礼な仕打ちにニヤリと笑って何日か後に陰湿な方法で報復する侍とか・・・。そんな人たちを想像するとおかしくもあります。
松尾芭蕉も伊賀の生まれで、あれほど長い期間旅を続けられるお金があったということは、どこかのスパイだったのではという話があります。枕の中から護身用忍具が見つかったり。もしも翁のあの俳句が何かを告げる暗号だとしたら、忍びとしては一流のエリートだったのでしょう。
by miomatsuda
| 2008-01-14 16:01
| ◆日々雑感/Notes