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2004年のファド日記

最近『クレオール・ニッポン』を発売してからいろいろな場面で、ポルトガルに住んでいた頃のことを聞かれることが多くなりました。

すると、ふと見つけたUSBの中に、2004年の日記がありました。リスボンでファドを歌っていた頃のもので、当時の感覚を なかなかリアルに書いているので、もしかしたらおもしろく読んでくれる人もいるかもしれない、と思って転載します。
(写真は元・鼓童のKaoru Watanabe リスボン公演に来た時に撮ってくれたもの

2004年2月9日付 
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 すごいものを見てしまった。
 モウラリアに、フェルナンド・マウリシオというファディスタがいた。彼は惜しくも去年亡くなってしまったが、そのファドはモウラリアのファディスタの永遠の憧れとして生きている。彼のためのコンサートがコリゼウで開かれた。
 このコンサートのことを知ったのは、ギタリストのバンザと家の近くの劇場のカフェでばったり会ったからだ。「明日来るのか」と聞かれ、あ、そういえば、と思い出し、急いでチケットを手に入れた。友達のジョアンナ・アメンドエイラも歌うし、アレッシャンドラやカティア・ゲレイロの名前もある。翌日さして大きな期待をするわけでもなく、「5ユーロでいろんなファディスタが聞ける、やったー」という軽い気持ちで出かけた。

 ステージにはバンザやヴィオラのジョゼの息子ディアゴ、そしてパウロ・パレイラなど大物が揃っていた。まず、はじめは2年前テレビで知り合ったゴンサロ・サルゲイロが歌った。いつものようにアラブ的節回しのアカペラで始まる「Grito」を歌い、「Estranha Forma da Vida」も歌った。その後はなんとマリア・ダ・ナザレが出て、そしてそのあとすぐにジョアンナが歌った。こんなに早く出していいのかなあ、一体次は誰が続くのだろうと思って見ていた。(ジョアンナの声はやっぱり麗しい!)初めて見るファディスタの人たちもいて、1曲ずつ歌っていくのだが、一人一人の個性が出ていて面白かった。中には「どうしてこんなうまい人のことを知らなかったんだろう」という歌い手もいた。フェルナンド・マウリシオの歌った詩をポルトガル一の俳優が朗読したり、マリーザのメッセージビデオが映されたり、とてもうまく進行していった。アレッシャンドラを生で聞いたのも始めてだった。「かもめ」を大声で歌っていた。Sr.Vinhoの専属歌手パトリシア・ロドリゲスが「暗いはしけ」をうまい節回しとよく通る声で歌い、今一番の売れっ子になりつつあるアナ・モウラもやはり綺麗な声で歌い、皆うまかった。リカルド・リベイラというモウラリアの歌手が歌ったときはそのビートの出し方や声のため方にすごいオーラを感じて熱くなった。それでも「やっぱり皆うまいなあ」くらいの軽い気持ちで見ていた。
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 2回目のインターヴァルの間、顔を知っているモウラリアのファディスタの人たちが客席で大声で会話しているのが見えた。それは客なのか歌い手なのかよくわからないくらいで、ちょっと笑ってしまった。「きっと彼らがファルナンド・マウリシオの歌を歌うんだろう」と予想していると、案の上次のステージで彼らがGruppo Mauricioとして6人でステージに上がった。フェルナンドの娘アナ・マウリシオも出ていた。ここからだ!本物のショーが始まったのは!
 1曲目はのど鳴らしのように歌ったあと、2曲目から彼らがすごい熱気を会場に送り始めた。私は後ろの後ろの席で歌手がとても小さく見えるのだが、彼らの熱気はそんなこと関係なく私の細胞まで入り込んでくるようだった。故フェルナンドをこよなく愛して尊敬していた彼らが1曲の詩を交互に歌った。男女6人の間でのコミュニケーションはただただ自然で、何年も一緒に歌ってきた絆が感じられた。一人歌うと、それにインスピレーションを受けたもう一人が新たな感情の炎を加える。モウラリアにしかないビートの乗り方や節回しでしごく自然にモウラリアをステージに持ってきてしまった。言葉ではあの素晴らしさは言い表せないが、まさに彼らはこう言っているようだった。
「本物のファドを知ってるのは俺たちだ、忘れるんじゃねえぞ!!」
 きっとこの間会場の誰しも息を呑んで見つめていたに違いない。このあまりにも強烈なモウラリアのファドがそこで「繰り広げられて」いるのを。あまりに激しいモウラリアの人生を!このままずっとそれを見つめていたかったくらいだ。本当に久しぶりにファドで涙が出た。まさに、凄いものを見てしまった。

 それからもう一つ驚きがあった。なんと、カティアの代わりにドゥルス・ポンテスが歌ったのだ。会場はどよめいてドゥルスを迎えた。生で彼女の声を聴いたのは初めてだったが、さすがの声だった。高音がどこまでも広がっていくような遠心的な声だった。1曲だけ歌ったのがさすがアマリアのではなくて、カスティソ(*庶民のうたう伝統)のファド。誰とも違う声の魔力にひたった。彼女が歌ったあと、皆もう終わりだと思って席を立とうとしたとき、カルロス・ド・カルモが登場。フェルナンド・マウリシオの十八番だった「聖エステヴァン教会」を歌った。でもあのモウラリアのグループの後では迫力も熱気も足りない気がした。彼の軽いシャンソン風ファドはこのモウラリアのファディスタの追悼コンサートの最後を飾るのには、あまりそぐわなかったのかもしれない。

 会場を出たあと、あのモウラリアのグルーヴが体の中で回って、いろいろな考えが頭を巡った。感動を呼ぶ歌は人それぞれで、どれがどうとは到底言えないけれど、この夜涙が出たのは、モウラリアの彼らが、彼らの人生を、モウラリアの伝統を、この地区のやり方を、これでもかとばかり体中から会場にぶつけていたからかも知れない。昔から売春や麻薬と結びついていた被差別地区の者の「こんちくしょう、俺らをなめんなよ」というようなエネルギー、そしてファドが生まれた地区の者の誇りを、売れっ子の歌手なんかには目もくれずに歌う姿はとても美しかった。(でも道で会ったら喧嘩したくないなあ。)彼らの伝統は消えずにずっと続いていってほしい。
 モウラリア新参者の私はこの古い街に敬意を表して、まだ酔いながら105段の階段を上り家路に着いた。モウラリア万歳!
                      (リスボン日記より)
    
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私は、当時モウラリア(モーロ人の街の意味)というファドが生まれたと言われる街に住んでいました。庶民のファドも暗いとか明るいとか一概に言えず、アルファーマやモウラリア、バイロ・アルトなど街によって感じが違っていて、私のいたモウラリアは一番やばくてディープでした。
モーロ人の作った迷路のような石造りの街に、地方からの出稼ぎ労働者、ロマ、船乗り、解放奴隷、ブラジルからの移民などさまざまな出自の人々が人生を刻みました。モウラリアはまさにクレオールの街で、この下町のやくざな世界が醸し出すものこそが、ファドの生まれた原点なのです。その原点を当時体得したいがためにモウラリアに住んだのでした。住んでみたら、大変だったけど。

どうしてファドの歌手と言われた私が、日本の伝承曲をテーマにCDブックを作ったのか。こうして昔の日記を読むと、モウラリアにファドの原点があるように、日本の多様な歌の原点を探したかったんだと思います。歌が教えてくれることが多々あります。

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(サンジョルジュ城からは我が家が見えました)

さて、明日からギリシャへ。久しぶりの完全なるプライベート旅です。
『クレオール・ニッポン』の冒頭でも言及したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生まれた島に行きたい、彼が聴いたかもしれないイオニア海の歌を知りたい・・。そんな情熱がかなって、ハーン4代目の小泉凡ご夫妻からレフカダ島の素晴らしいコンタクトをいただいてもう心はイオニア海フィールドワーク・モード!きっとまた歌を探し(出し)てしまう!

帰国後もいろいろなイベントが目白押しです。お土産歌を楽しみにしていてください。

by miomatsuda | 2015-01-16 01:28 | ◆日々雑感/Notes

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